生い立ちと競技生活の始まり
アームストロングはテキサス州プレノ(Plano,
Texas)で生れ、母リンダに育てられた。母の自立の精神はアームストロングが強く影響を受けたと彼はしばしば言及している。3才の時、母の再婚により現在の姓アームストロングを名乗る。運動選手としてのキャリアはトライアスロン選手として始め、16歳の時から自分より年長者の競技で戦っていた。やがて、自転車競技での彼の健脚に最大の天性が宿っている事が明らかになった。
アマチュアのサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなり、バルセロナオリンピックのロードレースで14位になり、これを最後に、1992年にプロ選手に転向。次の年、ノルウェーのオスロで行われた世界ロード選手権で単独の逃げを決めて優勝し、これが大舞台での初の勝利となった。
モトローラ・チーム(USA)に所属し、1995年のツール・ド・フランスでのステージ優勝1度と数度のクラシック・ワンデー・レースでの勝利など、彼の成功は続いた。前年、2位に入っていた合衆国で最も歴史ある自転車競技ツアー・デュポンに1995年、1996年と続けて優勝し、世界ランク1位を記録した。しかし1996年後半には、ツール・ド・フランスを棄権し、アトランタオリンピックでは12位と期待はずれの結果に終わった。
癌
1996年10月、ランスは睾丸癌に侵され、癌が既に肺と脳に転移しているとの診断を受けた。医師は生存確率を50%と宣告したが、のちに癌からの復帰後、主治医の一人は生存確率はもっと低く(一説には10%以下と言われる)、生存への希望を保ってもらう目的で50%との見積もりをしたと彼に述べている。インディアナ大学医学部での一連の過酷な化学療法と脳の浸潤部の切除後、どうにか回復した。標準的な化学療法には、心肺機能を低減してしまう副作用が知られていたため、競技生活の終わりを意味するものであった。このため、ランスは心肺機能へのダメージがより少ないであろう、より厳しい療法を選択した。小康状態となり、トレーニングを再開したが、彼の所属していたチームのコフィディスから、予想されたことではあったが、事務的に解雇された。結局彼は新たに結成されたUSポスタル・サービス・チームと1998年に契約し、自転車界に成功裏に戻ることが出来る様になった。
ツール・ド・フランス
彼が真に復帰したと言えるのは1999年、ツール・ド・フランスで最初の勝利を得たときである。そしてその後の6年間にわたる連続優勝の業績を成し遂げることになった。アームストロングは、タイムトライアル選手としても、また、山岳スペシャリストとしても、彼の素晴らしい能力により、殆ど無敵である事を示した。この間、総合タイムで2位とのリードは、2003年にヤン・ウルリッヒと1分01秒差であったのを除けば、6分を超えている。
成功の理由
彼はツールに向けてスペインでのトレーニングを積み、ツール・ド・フランスで成績を示してきた。ランス・アームストロングが専らツールの為だけに訓練できるという事が、ライバル達に勝る大きな優位性となっている。アームストロングのその年のツールでの成功は、彼のツールでの働きによってのみ決まるが、他の選手達は生活の糧を得るために多くの競技に出場しなければならず、それがツールに備えるライバル達の体力を消耗させている事になる。アームストロングは非常に低いギアを使いペダルの回転を早くする走法で、主なライバル達を急加速で引き離してしまう事が出来るが、ライバル達は、低い回転数で巨大なギアに力をかけるインデュラインと同じく、上り坂で高いギアを使ってペダルはよりゆっくりと回転させている。アームストロングはツールのもっとも険しい登りでさえも信じられない速度を維持でき、時には山岳スペシャリストさえも一定して彼に付いて行く事が出来ない。
加えて、最も有能な山岳スペシャリストと違い、アームストロングは個人タイム・トライアルでも非凡であり、ライバル選手ヤン・ウルリッヒのように肉体的に、よりふさわしい訓練を受けてきた人達に比べて、勝るとは言わないまでも、殆ど同列である。また、ツールの過去の多くの優勝者と違いアームストロングは山岳ステージで非常に攻撃的で、リードする事が好きで、壮観なアタックをみせる。こうしたアタックは通常各ステージの終盤に見られるが、彼はライバル達を大きく引き離す事ができ、山の遥か麓の戦場にライバル達を散らして置き去りにしてしまう。
だが、彼の5度目のツール優勝で、アームストロングは以前よりも一層、緻密に計算する必要のある走行を強いられた。周辺のライバル達によるすべてのアタックには対応出来なかったが、その代わり第1のライバルであるヤン・ウルリッヒに注意を集中していた。これにより、レース途中のウルリッヒのセンセーショナルな個人タイム・トライアルと共に、ここ数年で最も興奮させられるツールになった。アームストロングは、最終山岳ステージで相手に打撃となるアタックにより決定的なタイムを稼いだ後、ウルリッヒが転倒した滑りやすい濡れた路面と風の吹く最終一つ前のステージで自分の優位を落ち着いて保ちながら、結局、ウルリッヒを丁度1分上回る差で打ち負かした。
家族
アームストロングは、癌からの驚異的な復帰の後に妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。睾丸癌のため、凍結保存精子を用いた人工授精によるものである。しかしながら、夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚した。2004年8月現在、アメリカの歌手シェリル・クロウと交際中である。
※シェリル・クロウとはその後破局。
参考文献
- ランス・アームストロング(安次嶺佳子 訳): ただマイヨ・ジョーヌのためでなく(ISBN
4062102455)、講談社、2000年8月25日初版
- ランス・アームストロング、サリー・ジェンキンス(曽田和子 訳): 毎秒が生きるチャンス! (ISBN
4054024963)、学習研究社、2004年9月29日
外部リンク
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